Dance with Market

英国ポンドを売る時間

by 広木 隆

青山学院大学大学院・国際マネジメント研究科(青山ビジネススクール・ABS)の教壇に立って3年目になるが、初めての授業は忘れらない。メディアで顔と名前がそこそこ売れている僕が授業をおこなうのだ、どれだけ多くの学生が集まるだろうと期待して教室に行くと、たったの3人しかいなかった。愕然とした。結局、初年度の前期の履修者は5名だった。


そんなところからスタートしたABSの講義だが、初年度の後期には多くの学生が集まり、2年目はさらに増えた。3年目の前期もたくさんの学生が履修してくれた。



そして昨日から3年目の後期の授業がスタートした。僕が担当する「金融資本市場概論」の受講者数は50名を越えた。学校側からは教室が手狭なので学部の講義で使用する大教室に移るかと打診を受けたほどだった。


1年生は必修科目との兼ね合いで選択科目である「金融資本市場概論」を履修するのが難しく、受講者のほとんどが2年生である。ABSは1学年100名程度だから、ほぼ半数が僕の授業を選択してくれたことになる。木曜日の6限は他にも魅力的な講義がたくさんあるのに、これほど多くの学生が履修登録してくれたことは非常に光栄で身が引き締まる思いである。これから半年、一層充実した授業をおこなっていきたい。

僕の「金融資本市場概論」はファイナンスの授業ではない。ファイナンスは「理論」であり、「教科書」の世界だ。それに対して僕の「金融資本市場概論」は、リアルなマーケットの動きを学ぶものである。教科書には書いてない、「生きた市場」の話である。

ファイナンス理論の前提は、
1. 投資家は合理的である
2. 市場は効率的である
3. 市場は均衡する


というものだが、実際のところ、投資家は非合理的であり、市場は非効率的、不均衡である。

授業では毎回必ず「気になったニュース」を学生から挙げてもらうことにしている。そして僕からもトピックを提示する。今週は、「英国ポンド、1985年以来31年ぶり安値」というニュースを取り上げた。


英国のメイ首相は2日、与党保守党の党大会で演説し「EUから離脱するのに再び移民制限を放棄するわけにはいかない」と述べた。これを受けて市場では、メイ政権が強硬姿勢で欧州連合(EU)との離脱交渉に臨むとの見方が浮上、EU単一市場へのアクセスを失うとの警戒感 - すなわち、関税なしで自由に域内で貿易できる単一市場へのアクセスよりも、移民制限を優先するとの懸念が台頭した。

教室のスクリーンにポンド・ドルの推移を映し出し、学生に質問した。

「このチャートを見て、気づいたことは?」
「はい、先生。ポンドが値下がりしています」
「当たり前じゃないか!31年ぶり安値って話なんだから。他には?」
「16時になると大きく値下がりしています」
確かに3日も、4日も、そして5日も16時になると大きく動いている。
「グッド・ポイント。ではどうして16時になると大きく下がる?」
「・・・。」
「東京時間の16時はロンドンの朝の8時。ロンドンの連中が出勤してきて取引を始める時間だ」

一同はおおいに納得した様子。「しかし、おかしいと思わないか?」僕はこう続けた。

「株式のような取引所取引と違って、為替は『取引所』で取引されるわけではない。だから取引所が開いている時間でないと取引できないってことはなく、いつでも為替は動いている。為替は24時間、『眠らないマーケット』なんだ。だから、何もロンドンのひとたちは東京時間16時=ロンドン時間朝8時を待って取引する必要はない。メイ政権の強硬姿勢が材料なら、3日の東京時間の朝から売れたはず。他人よりもっと早起きして売ればよかったのに。ロンドンのひとは自分の生活スタイルを頑なに守って変えないのかな」

もうひとつ、おかしい点は、確かにロンドン勢はもっと早起きしてポンドを売ればよかったのに、と思う。しかし、それ以上に、東京時間で働いているアジアの為替プレーヤーはなぜ指をくわえて見ていたのだろう。ロンドンのプレーヤーがメイ政権の強硬姿勢を警戒しポンドの売り材料と捉えるなら、アジアのプレーヤーも同じように感じるはずだ。所詮、英国のEU離脱はアジア勢には他人事なのだろう。為替にもホーム・マーケット・バイアスが存在するのだろう。

「もっと早起きして売ればいいのに」という僕の声が聞こえたわけではあるまい。本日早朝の東京外国為替市場で英ポンドが突然急落した。8時すぎ、それまで対ドルで1ポンド=1.26ドル前後、対円で1ポンド=131円前後で推移していた相場が、一瞬で1.18ドル台と121円台まで売り込まれた。6%を超える変動率である。これにはさすがに誤発注説も含め、フランスのオランド大統領がEU離脱交渉に強気の姿勢で臨むとの観測報道が原因だとか、アルゴリズム取引の過剰反応とか、ストップロス・オーダーがドミノ倒し式に巻き込まれたとか、諸説流れているが真偽のほどは定かではない。

まあ、とにかく、ロンドンのプレーヤーがロンドン時間で売るだけでなく、いまや英国ポンドは誰もがいつでも売るようになったのだ。ある意味、まっとうになったと言える。英国ポンド売りも目先の佳境に差し掛かっていると思われ、早晩収束するだろう。


経済学者のロバート・ルーカスはこう主張した。


人々が合理的なら、過去のデータを使って予測可能なパターンを見つけ、それに適応するから、過去の情報は将来を予測するのにまったく利用できなくなる。

有名な「ルーカス批判」というものだが、『ブラック・スワン』の著者、ナシーム・ニコラス・タレブが非常にわかりやすい例を挙げている。

トレーダーが、月曜日に株式は上昇するというパターンを発見したとする。すると、そんなパターンは誰もが気付く。それを利用して儲けてやろうと金曜日に買って月曜日に売る人たちの取引で、パターンは均されて消えてしまう。
ナシーム・ニコラス・タレブ『まぐれ』

英国ポンドは東京時間16時=ロンドンの朝8時に値下がりするというパターンが、2日ももったのが不思議である(3日目の10/5は一度売られて下がったが、すぐに反発している)。いまや市場はそのパターンをぐちゃぐちゃにかき回して消そうとしている。一見、Chaotic にも見える市場の動きだが、実はもっともマーケットの本質的な動きであると言えるだろう。僕の「金融資本市場概論」はこういうことを取り上げる講義である。

授業を終えた後、数人の学生と飲んで帰った。学生といっても社会人MBAなので立派な大人である。さすがに彼らは良い店を知っている。渋谷の宮益坂を一本横道に入ったところにある洋食屋だ。洋食屋だが、ワインの品ぞろえは、そこらのビストロと遜色がない。料理はサーモンの昆布〆のような酒の肴にぴったりのものも出す。


教室の外では、教員も学生もない。ただの酒飲みのおじさんである。

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